永川 玲二
Reiji Nagakawa
(1928.2.11〜2000.4.22)
イギリス文学研究者でシェークスピアやジェームス・ジョイスの「ユリシリーズ」などの翻訳を多数残した永川玲二は、シェークスピアの時代のイギリスに大きな影響を与えたスペインに関心を持ち、1970年からスペインのセビリア(スペインの発音に従ってセジージャと表記)に移住して30年近くをその地で過ごした。
「物を書かない物書き」「気ままな放浪者」など多くの文学者、研究者から親しく評される自由な研究者であった。1999年から1年間、北九州市立大学に客員教授として滞在し、スペイン帰国直前の2000年4月に滞在先の東京で亡くなった。
近年、日本やスペイン・セビージャ時代を通して彼に強烈な影響を受けた、日本の作家やスペイン研究者、スペイン愛好者達の中から、彼の死後、永川について書かれたエッセイや彼の翻訳書の再評価が行われている。
<略歴>
昭和3年鳥取生まれ、昭和28年東京大学文学部英文学科卒業、東京大学文学部英文学科助手、都立商科短期大学部講師、東京大学教養学部講師、昭和36年4月東京大学教養学部助教授、昭和40年4月都立大学助教授、昭和44年10月都立大学退職、昭和45年よりスペイン居住。昭和63年スペイン・セビージャ大学講師、平成6年退職。平成11年4月~平成12年3月、北九州大学外国語学部客員教授。<詳細な年譜は下記参照>
永川玲二年譜 personal History
鳥取県米子市で出生(0歳)
1928年2月11日
米子市啓成小学校入学(6歳)
1934年4月1日
広島市大手町小学校に転入(7歳)
1935年4月1日
広島高師附属中学校入学(12歳)
1940年4月1日
広島に原爆投下される(17歳)
1945年8月6日
父・重幸が広島市内爆心地近くで被爆。
終戦(17歳)
1945年8月15日
終戦数ヶ月後に米子市の生家に帰着。
旧制松江高等学校文科甲類入学(18歳)
1946年4月1日
松江高等學校卒業(21歳)
1949年3月10日
東京大学文学部英文科入学(21歳)
1949年4月1日
教員免許(英語)取得(22歳)
1950年3月10日
東京大学文学部英文科助手(25歳)
1953年4月1日
東京大学文学部英文科助教授(31歳)
1959年4月1日
東京都立大学助教授(37歳)
1965年4月1日
セビージャに定住(43歳)
1971年11月1日
シベリア鉄道経由でスペインに渡りアンダルシアの古都セビージャに居を構える。
ユーラシア大陸横断(47歳)
1975年1月1日
セビージャ発ユーラシア大陸横断ドライブ敢行
「ことばの政治学」出版(51歳)
1979年5月25日
筑摩書房より『永川玲二著:ことばの政治学』初版出版(5月25日)
セビージャ大学客員教授就任(52歳)
1980年1月1日
北九州大学客員教授(71歳)
1999年4月1日
4月より1年間北九州大学に招聘されて客員教授
「アンダルシーア風土記」出版(71歳)
1999年7月27日
岩波書店より『永川玲二著:アンダルシーア風土記』初版出版(7月27日)
セビージャ大学図書館に蔵書を寄贈
2001年7月12日
日本文学全集 第30巻収録
2016年8月1日
日本文学全集 全30巻(河出書房新社)の第30巻「日本語のために」に、〜意味とひびき〜(ことばの政治学)収録
永川玲二 追悼の記
放浪の王子のやうな生き方
〜永川玲二を偲ぶ会での挨拶 2000年5月20日〜
逸話を紹介する。
永川玲二は何かのせいで下宿を追ひ出されて、正門前の宮本陽吉の部屋にころがりこんだ。その生活についての宮本の報告。
「一日中、蒲団のなかでヘンリー・ジェイムズ読んでるのね、毎日毎日。夕方になると、本を伏せて酒を飲みに出てゆく。そして夜遅く帰つて来て、寝る」
もう一つ。
永川は建築に興味があって、平井正穂先生がお宅を新築なさるとき、その設計を志願した。まことに見事な設計図が出来あがって、とりわけ書斎は、OED(『オックスフォード英語辞典』)を納める棚がきちんと指定してあるほど精緻を極めてゐたが、お手洗ひがなかった。
もう一つ。
永川は他人の悪口を言はない男だつた。その能力が先天的にないのかもしれないとわたしは疑つた。今でもさう思ふ。
*
まづ思ひ出されるのは、永川が英語のテクストを読むときの切れ味の鋭さ、おもしろさです。これははじめて会つたときから目を見張る思ひでした。実に突飛な訳をつけるんですね。破天荒で、常識はづれで、余人の及ぶ所ではない。それが典型的なくらゐよく出てゐるのは、例のジョイス『フィネガンズ・ウェイク』最初のページの「バババダ・・・・・」とはじまる落雷の音、これはローマ字が百字つづくんですが、このなかに日本語の「カミナリ」が「カミナローン」といふ形ではいつてゐるといふ指摘、これは今では世界中のジョイス好きの常識になつてますが、四十何年前、わたしたちが輪読をはじめたころは注釈書が一冊しかなく、しかもその本にはそんなこと一言も書いてなかつた。ほかの誰も言つてなかつた。わたしたちは彼の解読を聞いて呆気にとられ、しばらく経つてからも半信半疑でした。
さういふ読みの才能がまとまつた形で発揮されたのは『ハムレット』の訳です。あれはギヨツとするやうな新しい読み方がいつぱいあるおもしろい本で、しかもそれがそれなりに納得のゆくやうに恰好がついてゐて、坪内逍遥訳以来の穏健中正な訳しぶりにいちいち異を立てた、興味津々の書です。わたしの推薦では信用できないかもしれませんが、木下順二さんも褒めてゐました。ぜひごらんになつて下さい。
評論は本が二冊あつて、どれもいいものですが、彼の才能を存分に発揮したとは言ひにくい。わたしが永川の教養、学問、言語感覚、頭の回転、趣味のよさを高く買つてゐるせいかもしれませんが、彼の真価が示される本はつひに書かれないでしまつたといふ気がします。
ところで永川の人となりですが、あんなに魅力があつて、しかもあんなに傍迷惑な人は滅多にゐないのぢやないでせうか。心が優しくて、筋が通つてゐて、友情に厚くて・・・・・しかも実際的な生活では駄目なんですね。そそつかしいし、無器用だし、世間普通の常識を知らないし、しかも平気で嘘をつく。もうすこし上手についてよと頼みたくなるくらゐ、子供つぽい嘘をつく。でも怒る気になれないし、すくなくとも我慢するしかないと思はせる。さういふ人でした。
いろんなことがあつたが、死なれて見れば懐しい、といふのは、かういふ席でよく言はれることです。しかし永川は生きてるうちから懐かしい人でした。不思議な風格の男ですね。あの魅力はどこから来るのかと考へると、並はづれた教養とか、語学力とか、愛嬌とか、ちつとも偉さうに構へない、勿体ぶらない、飄々とした人柄とかいろいろあるけれど、根本的には彼が世俗的なものに拘泥しないで、むしろそれをなげうつて、少年のやうな冒険心、探求欲を野放図に発揮してゆく、その生き方のエネルギーと切なさが心を打つのぢやないでせうか。
わたしたちは生きてゆく途上で、ときどき初心を忘れ、冒険の意欲が薄れることがあります。さういふときに、まるで神話に出て来る放浪の王子のやうな彼の生き方、彼の面影を思ひ浮かべることは、自分を励まし奮ひ立たせるのに非常に役に立つやうな気がします。
これで終わりにします。
※偲ぶ会:2000年5月27日 法政大学本校 第二学生食堂
<丸谷才一著「挨拶はたいへんだ」朝日文庫2004年刊行 より引用>