旅人の系譜、永川玲二において
※雑誌 TRANSIT No.3 2008年冬号(P.114〜P.119)より引用掲載
英文学者・永川玲二が亡くなったのは8年ほど前(※1)のことだった。30年以上セビーリャ在住だったというのに、100人以上もの人が東京での追悼会に集まり、現地新聞も「日本のセルバンテス(ドン・キホーテの作者)が亡くなった」と大々的に報じたという。
シェイクスピアやジェイムス・ジョイス「ユリシーズ」の翻訳で知られている彼は、60〜70年代の大学闘争が最も激しかった頃、勤めていた東京都立大学を41歳で辞して海外を目指した。それは、闘争を鎮めるために機動隊を構内に入れることを決定した教授会が、大学の自治を自らの手で守ろうとしないことに対する怒りの意思表明だったという。その後、イギリスを経てシャイクスピア研究の背景にある大航海時代の舞台、セビーリャへと移り住み、当時の膨大なる資料が眠るインディアス古文書館に足しげく通った。
ほしい情報は家にいながらにしてインターネットですぐに手に入るようになった現代に、彼の生き様に共感できる人がいるかどうかはわからない。けれども、当時の背景にあった戦争や紛争による思想的、経済的な支配は、今もなお、一見穏やかな仮面を被って私たちの隣に息を潜めている。氏の著書「ことばの政治学」を読んだとき、ベルギーのヘントにある文具店主とのやりとりにははっとさせられた。
店には、公用語のひとつであるフランス語の新聞、雑誌は一切置いておらず、店主は、オランダ語、フランス語、英語を使い分ける。そのことを永川は、ウルトラ・ナショナリストだ、と評した。「とんでもない。ごく穏健なソーシャリストさ」と店主は答える。ド・ゴール派がフランス語系をけしかけるために、コメディ・フランセーズの劇をタダ同然の切符でみせている、これは旧植民地に対しても同じで、裏には言語的帝国主義がある、と。
そこで、彼は、これまでこの国には、オランダ語によるまともな法典はなかった、裁判官や弁護士はフランス語で教育を受け、被告はオランダ語じゃ罪状が決まってから訳されても何も太刀打ちできぬではないかと、冷静に答える。結局、どれが正しいという答えはない。・・・これは、多くの国が抱える問題だ。国境と言語的境界が同じである日本では理解しにくい内容だが、この背景には、彼が住みはじめた頃のスペインがあり、フランコ政権のバスクへの言語弾圧が見え隠れする。これは、消えゆく民族文化へのオマージュとも取れる内容だ。
読み進めるうちに、辛辣な指摘をしながらも爽やかな読後感を抱かせる著者に、旅人として関心を持ち、英文学者なのになぜセビーリャに住んでいたのか知りたい、と思うようになった。
日本とスペイン、国境のない交流
川風がそよぎ、玄関口の花が揺れる。永川玲二が住んだトリアナ地区にある長屋の壁は、イスラム文化の影響を受けたアンダルシアならではの花模様のタイルに彩られていた。門を入ると、亡くなって8年近くも経つ(※1)というのに、郵便受けには名前が残されている。長屋は声が筒抜けらしく、住人との立ち話は、近所のおばさんも入っての井戸端会議になった。
現在、旧永川家は、老朽化により工事中になっているのだが、おばさんは理由を知らず、なぜ彼の家を壊すのか、と憤慨していた。工事を請け負った隣人のルイス氏は、彼の親族から譲り受けた家を元通りに修復しているというのに、おばさんは、彼女なりの正義感で彼を思い、涙ぐむ。そんな人情溢れる下町の雰囲気がきっと、氏のお気に入りだったのだろう。また、セビーリャは良港が近くに多かったことから外国人の受け入れに寛大であり、それも住みやすさのひとつだった。「本を書きなさい、誰にでも一冊は書けるはずだから」--永川氏は、飲み会の席でいつもこう言っていた。誰だって自分の一生を書きとめることができると。書く段階で、何かに気づくことができるとでも言いたかったのだろうか。彼自身は、自伝を残さなかったというのに。
「人を巻き込むのが上手な人で。私も巻き込まれて、日本と関わることになってしまいました」--と流暢な日本語で語る、コーディネート業を行うフェデリコ氏は、1975年、彼のボロ車でともにセビーリャを発ち、陸路でイラン、アフガン、インド、タイを経由して日本に連れてこられたひとりである。その後、彼は日本で奥さんを見つけ、セビーリャに戻った。
「知」を携えて歩く旅人
「彼の生活には、好きだった登山の哲学がありました。まず荷物を少なくすること。いつ助け合わなければいけないかわからないから、喧嘩をしないこと。みんなよいところがあり、役割があるのだから、人の悪口を言ってはいけない。自分が持つものはそれぞれが自由に判断すること。その割に、よく喧嘩していましたけど」。フェデリコ氏は、日本語が理解できないときから、彼のそんな行動をとても尊敬していたようだ。まるでベースキャンプのように、セビーリャを訪れた多くの旅人を自宅に滞在させ、自分が旅に出るときには相手かまわずに鍵を渡す。永川は、諸国漫遊しながら、大衆の息づかいを体感し、今、その場所で何が起こっているのか、ということを深い知識による洞察を加えて家に集まる人々にわけ隔てなく話したという。おそらく、その一端が「ことばの政治学」の旅人との会話に表現されたのではないだろうか。
大航海時代を研究するためにセビーリャに辿り着いたというのに、それは、書物として完成しないまま彼は亡くなってしまった。今回出会った、彼と親しかったという日系ブラジル人のヨウコさんは、「大きなことをやる人だと思っていたし、実際に多くの人から尊敬を集めたわ。だけど、彼の求めた“何か”は、彼にもわからないものだったかもしれないし、永遠につかめないものだったかもしれないわね」
よく旅に出た人生だった。後に、彼の盟友だった作家の丸谷才一氏は自著「挨拶はたいへんだ」のなかで、彼への追悼の挨拶で、「わたしたちは、生きてゆく途上で、ときどき初心を忘れ、冒険の意欲が薄れることがあります。さういうときに、まるで神話に出てくる放浪の王子のやうな彼の生き方、彼の面影を思ひ浮かべることは、自分を励まし奮ひ立たせるのに非常に役に立つやうな気がします」と、結んでいる。
人と風土の出会いのなかから生まれる化学反応は、旅人を次の場所へと運んでゆく。永川もまた、そうやって旅をしていたのだ。彼の旅は、トランジットしている途中の相手を必ずと言っていいほど次の旅へと誘った。相手の人生を開く影響を与え、自分もまた影響を受け、次の場所へと進んでいく。私たちは多くの旅に出かけても、そんな経験をすることは稀で、旅に慣れれば慣れるほど、良くも悪くもそんなもんだと妙に達観してしまう瞬間がある。多くの人を激励し、影響を与えた彼の生き様を感じる旅は、今もなおセビーリャに残る男の気配を感じながら、自分自身もトランジットしていく旅だったように思う。
(※1:TRANSIT発刊は2008年)
セビーリャ〜アジアハイウェイ ある旅の軌跡
1975年。中古のフォルクスワーゲンを駆って、セビーリャからアジアへ旅した道のりの記録。
途中まで同行したフェデリコ氏の回想
1975年6月半ばに、玲二さんとサルとハリエットと僕の4人は、おんぼろのワーゲンビートルに乗って、セビージャを出発。数日後にパリに到着しました。パリでは、富所道子さんのところに玲二さんとサルが泊まって、山口文憲さんのところに僕とハリエットが2・3日間泊まりました。その間ハリエットのお母さんが来ました。道子さんと文憲さんと一緒に マッタホーン山とイタリアのアオスタ谷まで旅をしました。
その後、僕らだけで旅を続けまして、ベネチアを通って、元ユーゴスラビアを渡って、ギリシアのテッサロニキを経由して、イスタンブールに着きました。
イスタンブールでは、面白いキャンプ場に何日間か泊まりました。このキヤンピングはヨーロッパ側にあって、段々畑の形になっていて、ボスポラス海峡に面にしてアジア側がよく見えました。そこで、自分たちで料理して、ラキ酒を水で割って飲みながら麻雀をよくやりました。とても良い思い出になっています。
そこからファーティフ・スルタン・メフメト橋を渉ってアジアに入り、チャナカレー町の近く、ホメロスの叙事詩『イリアス』に出て来るトロイの遺跡まで行きました。そこからイズミル市、温泉があるパムカレー市(ここに何日間か泊まりました)、アンタルヤ、アダナ、ヴァン湖、アララット山、タブリスを通って、テヘランに着きました。
ここまで、経由地として大きな街の名前を書いていますが、ルートを分かりやすくするためです。実際には、大きな街には入らず、いつも田舎の町の市場で材料を買って、近くでキャンプしながら自分たちの美味しい食事を作っていました。殆どはキャンピング場ではなく、ワイルドキャンピングしていました。
イランに入った時に玲二さんのパスポートにスタンプされたので、テヘランで知り合った、逆コースを旅していたオーストラリア人に車を譲り、 パスポートをクリアするために玲二さんだけトルコとイランの国境まで彼らと一緒に乗って、戻りました。
テヘランまでは4人で例の車で(僕が最初から最後まで運転して)旅をしてきました。この後僕とハリエットは、サルと玲二さん達と別れたので、彼らの旅は聞いた話しか知りません。
恐らく、テヘランからデリーまで一本の道のようになっていたので、ハリエットと僕と同じように以下のルートで行ったと思います。
テヘランから電車でマシュハドまで行って、その後バスでアフガニスタンのヘラート、カンダハール、カブルを通って、パキスタンへ入りました。同じくバスでペシャワルを通ってパキスタンとインドの国境近くまで行って、国境を渡る橋は歩くという方法しかなかった。インドに入ってからアムリトサルを通ってデリーまで電車で行きました。
玲二さん達はインドのどこかでワーゲンのワゴン車で旅していたスペイン人のグループと知り合って、ゴアまで行ったと聞きました。その後の事は聞いた事があるかも知れませんが、もう僕の記憶にはありません。
全旅程同行したサルバドール氏の旅に関する著作
「De Sevilla a Tokyo」〜Andanzas de Reiji y Yayo〜
「セビージャから東京へ」〜玲二じじいの冒険〜
スペインセビージャからユーラシア大陸・アジアハイウェイを経て、東京までの旅に同行したサルバドール氏による旅行記。
その後東京で暮らし、現在はスペインで高校美術教師を務めている。
著作入手次第公開予定。